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〜 京葉線 〜

交通システム工学科1年 3043番 T.K.

1. 概要

 京葉線は東京〜蘇我間43.0キロおよび市川塩浜・南船橋〜西船橋間(二股支線・高谷支線)を結ぶ、路線である。鉄道要覧においては東京〜西船橋・蘇我〜西船橋・市川塩浜〜南船橋を京葉線と定義している。ここでは東京〜蘇我間を中心に取り上げる。


2. 駅

 京葉線の駅は表1の通りである。

表1 駅一覧

駅名

快速停車駅

通勤快速停車駅

東京

八丁堀

越中島

潮見

新木場

葛西臨海公園

舞浜

新浦安

市川塩浜

二俣新町

南船橋

新習志野

海浜幕張

検見川浜

稲毛海岸

千葉みなと

蘇我



 かつては休日専用の快速「マリンドリーム」が存在したが、休日の八丁堀停車と葛西臨海公園通過により消滅した。


3. 車両

 京葉線用車両は以下の通りである。
  • E233系5000番台
  • 209系500番台
  • E331系
  • E257系500番台
  • 255系



写真1 E233系5000番台(左)と209系500番台(右)


4. 沿線の歴史

 『町は孤立していた。北は田畑、東は海、西は根戸川、そして南には「沖の百万坪」と呼ばれる広大な荒地が広がり、その先も海になっていた。交通は蒸気船と乗合バスがあるが、多くは蒸気船を利用し、「通船」と呼ばれる二つの船会社が運行していて、片方の船は船躰を白く塗り、片方は青く塗ってあった。』山本周五郎著「青べか物語」の中で浦安をこのように表現している。“陸の孤島”浦安の主な交通手段は、和船と呼ばれる木造の船だった。江戸幕府によって人工河川である小名木川が整備されると浦安と江戸中心部が近くなり、貝や魚などが料亭などに売れるようになった。当時の主要ルートは新川、中川、小名木川、隅田川、というルートであった。船には主に3種類あり、速度の早い猪牙船。人々の移動などに使われた、日除舟。年貢米などの輸送に活躍した高瀬舟の3種類である。これらの船の通行を管理していたのが船番所である。船番所の1つ、中川船番所では、東北や関東から出入りする船を管理していた。
 明治時代に入ると、日本は大きく変化することになる。今までの和船から水運の主役が蒸気船に移ってきたのである。風や人力に頼らない蒸気船はそれまでより大量に早く運べることから、より小名木川の重要性が高まることになる。明治40年には、蒸気船「通運丸」が浦安にも就航。冬場の積荷のほとんどが、浦安でこのころ養殖が始まった干し海苔であった。大正4年に通運丸は通船に置き換え。その後葛飾丸も就航した。通船の船躰は白に、葛飾丸は青く塗られていた。乗船時間は約90分ほどであった。当時すでに総武線も開業していたが沿岸部の人たちは、このような船を依然として利用していた。この状況を変えたのは、浦安橋の開通であった。これにより定期船は廃止された。これに変わる交通機関として利用されたのが自転車であった。漁民の中には川越付近まで売りに行った人もいるという。これと平行して利用され始めたのがバスである。錦糸町から浦安まで東京市営バスが運行を開始。都バスが東京以外に乗り入れた珍しい例だろう。バスは通勤通学に利用され、ラッシュ時には乗り切れない人たちで溢れ返ったという。1969年に帝都高速度交通営団東西線が開通。従来、都心部までバスと電車で1時間以上かかっていた所要時間はわずか20分程度に短縮され、都心のベッドタウンとして急成長を遂げた。
 ところで、京成千原線をご存知だろうか。千葉中央からちはら台に至る路線である。この路線は小湊鉄道の海士有木まで延伸する計画があったということは周知のことと思う。この路線の免許は本来は小湊鉄道保有の免許であった。しかし、ATSさえ設置できなかった当時の小湊鉄道に新線建設の体力などなく、これを譲り受け開業したのは京成傘下の千葉急行電鉄である。しかしこの会社も経営破綻してしまい、現在は京成千原線として再スタートしている。
 「昭和39年8月18日、当社(京成電鉄)は江東区東陽町・千葉市千葉寺間の新線敷設免許申請をいたしました。現在、千葉県では京葉臨海工業地帯として東京湾沿岸に3300万u(1000万坪)に及ぶ工業地を埋立造成する計画を樹てて工事を進め、既に一部の埋めたて造成を完了し、大企業が進出操業しておりますが、これに伴って輸送需要は急増し、現在の当社線及び国鉄総武線の輸送力では、これに応じきれない状態になりつつあります。そして、将来京葉臨海工業地帯完成後の人口は、更に増加を予想されますので、これによって急増する輸送需要に対処するため新線の敷設免許申請を行ったのです。」
 この京成新線は結果から見れば明らかであるように、実現することなく終わってしまった。この新線計画は『京成50年史』以外での文献には、計画についての情報は見つけることができなかった。債務超過寸前まで経営が悪化していた時期に新線建設など夢のまた夢である。かくして京葉線は国鉄の貨物列車用バイパス線として計画され当初は有楽町線乗り入れや、今のりんかい線を利用した貨物迂回案を経て、海浜ニュータウンとテーマパーク建設予定地浦安を結び、さらに成田新幹線の遺構を利用して東京まで至る路線として今に至る。


参考文献
  • 京成電鉄:「京成電鉄五十五年史」、1967年
  • 飯島巌, 諸河久, 成田喜八:「私鉄の車両 12京成電鉄」、ネコ・パブリッシング、2002年
  • 白土貞夫:「新京成電鉄 駅と電車の半世紀」、彩流社、2012年
  • 「とれいん」、NO.385、エリエイ出版、2007年
  • 京成電鉄:「京成電鉄 85年のあゆみ」、1996年
  • 浦安市:「浦安町史」、1969年
  • 浦安市:「浦安市史 行政編」、1985年



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