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〜 東京スカイツリータウンに集う公共交通 〜

社会交通工学科2年 1107番 浜田 卓

1. はじめに

 2012年5月22日、自立式電波塔世界一の高さを誇る東京スカイツリーを中心とした複合施設、東京スカイツリータウンが開業した。開業以来、予測を上回る勢いで来場者が増え続けており、東武スカイツリーラインや東京メトロ銀座線では臨時列車も設定された。今回はそんな東京スカイツリータウンに集まる鉄道とバスについて紹介する。



2. 東京スカイツリータウンへのアクセス




図1 東京スカイツリータウンへのアクセス



 東京スカイツリータウンの最寄り駅は、東武スカイツリーラインの「とうきょうスカイツリー」駅および都営浅草線・京成線・東京メトロ半蔵門線・東武スカイツリーラインの「押上」駅(副駅名:スカイツリー前)である。大手町、渋谷などの都心や、羽田・成田の両空港へ鉄道で乗り換えなしのほか、東京スカイツリータウン乗り入れのシャトルバス「スカイツリーシャトル」により、上野駅、東京駅、羽田空港、東京ディズニーリゾートなどと結ばれている。



3. とうきょうスカイツリー駅と東武鉄道




図2 東武鉄道関係・押上界隈位置図



 「とうきょうスカイツリー」駅は、東武鉄道の起点駅であった北千住からの延伸に際し、「小梅」駅の名で計画され、1902(明治35)年に「吾妻橋」駅として開業した、110年の歴史を持つ駅である。開業時は東武鉄道の都心側の起点駅であった。ところが、その2年後、曳舟―亀戸間(現・亀戸線)の開業と総武鉄道(現・JR総武線)への乗り入れ開始に伴い、吾妻橋駅はいったん廃止となる。総武鉄道とは合併話が出るなど良い関係にあったが、さらに2年後の1906(明治39)年、総武鉄道が国有化されることになり、その後乗り入れは中止となってしまう。東武鉄道は当時、亀戸から先、越中島までの延伸を目指していたが認められず、のちに国鉄が亀戸―越中島間に貨物線を敷設して今に至っている。
 一方で、都心側の拠点として吾妻橋駅を復活させることとなり、手始めに廃止から4年後の1908(明治41)年に貨物営業を再開、さらに2年後に「浅草」駅と改称するとともに旅客営業を再開している。こうして起点駅として返り咲いた浅草駅は、旅客ホームに加え、転車台や機関庫、工場、貨物積卸場、さらには北十間川とを結ぶドックまで造られ、陸運と舟運との結節点として確固たる地位を占めてゆく。
 蒸気鉄道として開業した東武鉄道であるが、1924(大正13)年に浅草―西新井間を電化し、数年後には伊勢崎までの電化が完了、日光線・宇都宮線も電化で開業し、各方面への特急列車が走り始める。しかし、起点駅としての浅草駅はやはり都心から離れすぎていた。浅草寺のある花川戸地区も隅田川を挟んだ対岸であった。そこで東武鉄道は、花川戸地区を通り上野までの延伸を計画する。ゆくゆくは東京駅への進出も目論んでいたという。ところが、この計画が京成と競願となってしまい、最終的に東武の浅草(花川戸)延伸のみが認められ、上野乗り入れは実現しなかった。
 こうしてようやく浅草雷門駅が開業するのは1931(昭和6)年のことである。浅草雷門への延伸で中間駅となった浅草駅は「業平橋」駅と改称される。中間駅となったことで、優等列車はすべて通過、旅客もほとんどが浅草雷門を利用するようになってしまう。一方で、貨物駅としての発展はその後もしばらく続く。東武鉄道の広大な路線網により、各地の物資が集められていたからである。しかしながら、戦後になるとトラック輸送が頭角を現し、1955(昭和30)年にはドックを廃止、鉄道貨物輸送も衰退の一途をたどってゆく。そんな中、日本初の生コンクリート工場が構内に設けられる。この工場は東京スカイツリータウンの開業前まで操業を続け、現在ではタウンの一角に記念碑が建てられている。
 時は流れて1990(平成2)年、役目を終えた貨物線とホッパー線の跡に地上2面3線の行き止まり式臨時ホームが完成する。当時、増加する通勤需要への対策が喫緊の課題となっていたが、浅草駅の容量が不足していたことや10両編成が入線できないことなどから、朝の上り準急列車は一部曳舟止まりとしていた。この曳舟止まりの列車を業平橋まで延長し、臨時ホームから押上駅への連絡通路を設けることで都営浅草線への迂回利用を促し、北千住口の混雑を緩和するねらいがあった。ただし、この措置は一時的な救済策であったため、混雑緩和の抜本的な対策として東武伊勢崎線と地下鉄半蔵門線との相互乗り入れが開始したことに伴い、2003(平成15)年に臨時ホームは廃止、解体されることとなった。
 そして2012(平成24)年、業平橋駅は「とうきょうスカイツリー」駅と名を変え、時代に合わせ様々な役割を担ってきた広大な敷地は、東京の新たなシンボル、東京スカイツリーのまちとして生まれ変わったのである。



写真1(左) とうきょうスカイツリー駅を発車するソラカラちゃんラッピングりょうもう号
写真2(中) 従来の古レールの骨組を活かした膜屋根となったとうきょうスカイツリー駅
写真3(右) 東京スカイツリータウン内にある生コンクリート工場発祥の地の記念碑



4. 押上<スカイツリー前>駅と京成電鉄



図3 京成電鉄関係・押上界隈位置図


 「押上」駅は、1912(大正元)年、第1次電鉄ブームのさなかに京成電気軌道の開業と同時に誕生した駅である。押上を起点として江戸川までを開通させた京成は、その後船橋、千葉と延伸を重ね、都市間連絡鉄道としての地位を確立してゆく。一方の都心側は、やはりターミナルとしてはいまいちの立地で、少なくとも繁華街の浅草までは自社で乗り入れたい思いがあった。ただし、当時の東京市は「市内交通の市営主義」の政策の下、各地に市電を張り巡らせていた。こうした状況で京成は当初、向島―白鬚―三ノ輪橋間の免許を申請し、さらに王子電気軌道(現・都電荒川線)との連携により、東京市のはずれである王子方面への進出を目指していた。しかし、白鬚まで開通させたところで一転、浅草への乗り入れを計画することになる。総武本線という競合路線がある中で、京成としては何としても隅田川を越えたかったに違いない。だが、事はそううまくはいくものではない。
 前項で述べたとおり、浅草へは東武と京成の2社が乗り入れを目論んでいた。初期段階こそは、2社で隅田川橋梁を共有する構想があるなど、協調して延伸が進むかに見えた。しかしながら、持ち前の政治力によって東武のみが東京市からの許可を得たのをきっかけに、東武と京成との関係は急速に悪化することとなる。
 京成の延伸については、東京市の反対に加え、浅草周辺住民の強硬な反対もあって非常に困難な状況に陥っていた。このような状況ではあったが、京成は試行錯誤をしつつ何度も申請を繰り返した。というのも、東京成芝電気鉄道という脅威が存在したからである。成芝電鉄は1927(昭和2)年、東京の東平井(現在の東京メトロ東西線東陽町駅付近)と成田を結ぶ路線の免許を確保する。東平井では東京市の高速鉄道(すなわち、地下鉄)と連絡する手はずになっていて、これにより東京駅や新宿駅まで行ける計画となっていた。これがもし実現していたら、京成の旅客流出は必至であっただろう。ちなみに、成芝電鉄の発起人には台湾鉄道の元局長を中心に、東武の社長を務めていた根津嘉一郎(初代)も加わっていた。このことからも当時の東武と京成との対立の深さがうかがえる。
 京成への逆風はさらに強まる。鉄道省が総武本線の電化計画を発表したのである。加えて、それまで両国を始発駅としていたのを御茶ノ水まで延伸する計画も明らかになる。線形の悪い京成にとって、省線が電車による高速運転を開始し山手線に接続するとなれば、壊滅的なダメージを受けることは想像に難くない。焦った京成首脳陣はついに汚職事件を起こしてしまう。申請を有利にするための工作費が、京成から政界へ渡されたのである。この事件は一般に「京成電車疑獄事件」と呼ばれている。工作費のおかげか、その後の市会では一転して乗り入れ案が可決される。しかし、直後に事件が発覚し、特許の許可は先送りされることとなった。
 その後ようやく特許を取得できたのは、東武鉄道が浅草延伸開業を果たした2か月後のことであった。ところが、ちょうど世界恐慌のあおりを受け、巨額の資金が必要な浅草延伸は断念せざるを得なくなる。その代わりに、青砥から町屋や日暮里を経て上野公園(現・京成上野)へと至る路線を建設することになり、これが現在の京成本線となっている。
 なお、浅草への乗り入れは、1960(昭和35)年になってようやく、都営1号線(浅草線)との直通運転により達成されることとなった。



写真4(左) 東京スカイツリーと京成電車(四ツ木駅を発車する3700形電車)
写真5(中) 「スカイツリー前」の副駅名が付いた押上駅の看板
写真6(右) 東京スカイツリーイーストタワーのそばにある京成電鉄本社(移転予定)





 
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