←前のページへ | 次のページへ→ |
京都に路面電車が開業してからというものの、北は旭川から南は沖縄まで、それこそ日本全国へと広まっていきました。初期の車両は車輪が2軸で小ぶりの車体の車両でしたが、時代が進むに連れ、そして乗客が増えるにしたがって、より大型の車両が登場してきます。車体も木造から金属製へと変わり、性能や輸送力も格段に向上し、路面電車は路面交通の主役となりました。また、路面電車のあとを追って、現在のバスの原型となる「乗合自動車」も登場します。こちらもしだいに大型化し、いわゆる「ボンネットバス」によって今と同じ路線バスが形作られました。しかし、当時の道路は一部に石畳の道がある程度でほとんどが舗装されておらず、バスの乗り心地は最悪で、路面電車が走っているところでは誰もバスに乗ろうとしなかったといいます。 その後、太平洋戦争によって都市の路面電車は大打撃を受けます。しかし、路面電車は驚異的な速さで回復を遂げ、再び路面交通の主役として活躍を始めました。このころになると路面電車はより大型化し、2つの車体をつなげて輸送力を上げた「連節車」も登場します。都内には都電の線路が網の目のように張り巡らされ、1日の乗客数はなんと190万人にのぼりました。このころの路面電車は、まさしく市民の足として活躍していました。 ![]() ↑全盛期のオーソドックスな車両 しかし、高度経済成長期に入ると路面電車は急速に勢いを失っていきます。モータリゼーションの到来です。昔から、日本人は非常に新しい乗り物を積極的に導入してきました。外国で路面電車が開発されるとすぐに導入され、人力車や乗合馬車はあっという間に姿を消しました。そして昭和30年代に入り、自動車の大量生産が始まるとあっという間に普及し、路面電車はしだいに邪魔者扱いされるようになりました。そして経営は大赤字となり、地方都市から路面電車が消えていきました。昭和40年代に入るとその傾向にますます拍車がかかり、とうとう大都市の路面電車までもが廃止されるようになりました。オリンピックの開催による道路整備、地下鉄建設なども要因の一つです。さらに追い討ちとなったのが、自動車の軌道敷内通行許可です。これによって路面電車は定時運行ができなくなり、ますます客離れが進み、路面電車はあっという間に姿を消しました。生き残ったわずかな路線はまさに運がいいとしか言いようがありません。 これによって、路面電車に変わる路面公共交通という使命を与えられたのが路線バスです。しかし、路線バスは渋滞の渦に巻き込まれてまったく定時運行ができず、使い物になりませんでした。これにより、路面電車を使っていた人はバスではなく自動車を使うようになり、路面電車の廃止によってますます渋滞が激しくなっていったのです。路面電車に廃止はこのような予想外の弊害を生み出したのです。 コラム:当時、目の敵にされていた路面電車だが、地域によっては路面電車の存続へ向けて新しい取り組みを行おうとするところもあった。その代表が神戸だ。神戸市は自動車の邪魔にならないように市電を高架化するという構想を打ち出した。しかしながら、路面電車廃止へと進む世論を説得しきれず、残念ながら構想だけで終わり、市電は廃止されてしまった。もし、この構想が実現していれば、日本の路面電車がLRTに近づいていたのかもしれない。 ![]() ↑市内線から郊外へ直通する広島電鉄宮島線が 日本では一番LRTに近いと言える |
次のページへ→ |